だから日本車のデザインはダサい、私論[沢村慎太朗さんメルマガを読んで]

だから日本車のデザインはダサい、私論[沢村慎太朗さんメルマガを読んで]
腰高、ならぬ“てっぺん高”の感じが拭えないMR2

朝起きたら、沢村慎太朗さんのメルマガが届いてた。毎月末は読者からのQ&Aコーナーで、ひとつひとつのブロックが短くて読みやすい。
普段の回は中身がギュッと詰まってるので面白くてタメになるけど、1万字以上の長編(メルマガにしては)が多いので実は読むのに時間がかかる。
だけどQ&Aならサクッと読めるのでうれしいですね。

けさ読んだ中では、「日本車のデザインは何であんなにダサイの(僕の意訳)?」という問いに対する答えが面白かった。
沢村さんの好きな音楽と対比しながら、戦後日本における文化としてのデザイン変遷を語っていたのは、沢村さんらしくて楽しく読めた。

それともうひとつ、僕は日本企業ならではの「合議制」に問題があると思った。

 



 

日本人はみんなで話し合ってコトを進めるのが好きだ。

工業の世界で有名なのは、ホンダのワイガヤだ。いろんな分野の技術者やスタッフが集まってワイワイガヤガヤ、課題に対するベストな答えを見つけるプロセス。日本流に言うなら「三人寄れば文殊の知恵」、イマ流だと「コラボレーション」。

クルマをはじめ、時計、カメラ、工業用ロボット、鉄鋼や樹脂などの素材・・・あらゆる日本のものづくり企業は多かれ少なかれ、そんなプロセスを経て技術革新を繰り返し、世界でも有数の企業に成長してきた。

ただね、日本のクルマ企業の間違いは、そのワイガヤスタイルをデザイン決定のプロセスにも持ち込んだことで、それが日本のクルマデザインが今ひとつぱっとしない大きな原因だと僕は思ってる。

例えば、初代トヨタMR2。妙にルーフが高いデザインだな、と出てきたとき僕は思った。低いノーズからスッと伸びたラインが、ヘンに高いルーフでぶった切られてる。なのでスポーティカーらしくない、ずんぐりとした、出来損ないの2ボックスみたいな第一印象だったのをいまでも憶えている。

あとから聞いたら、トヨタの生産前社内プレゼンで老ボケ重役が乗り込もうとした際、低いルーフに頭をぶつけた。「乗り降りでいちいちこうなるのは許さん!」と、その老ボケ重役が息巻いて、ルーフ高を3センチ上げさせた、というのだ。

バカな重役。自社のクルマの商品価値より、自分の権威を振り回す方が大事だったわけだ。
この老ボケのせいでMR2はミッドシップのスポーティカーにあるまじきブサイクなデザインに仕上がってしまい、駐車場に停めた自分のクルマをうっとりと眺めるような持つ喜びとか、友達に見せびらかす優越感とか、こういったモデルならではの楽しみが大きく損なわれてしまったのだ。
カッコ良かったら、和製X1-9として世界中にファンが増えて、モデルとしての寿命ももっと延びたかも知れないのに。

ニッサンも同様だ。80年代、トヨタ クラウンに連戦連敗していたセドリック/グロリアの開発に、営業サイドがいろいろ口をはさんできた。曰く、「クラウンよりも大きく見えるように」「クラウン以上に豪華な感じに」とかとか。
そのせいで、あの時代のセド/グロは、ホイールベースもトレッドも小さいシャシーなのに、オーバーハングの大きなぶよぶよとしたボディを被せられ、仏壇みたいなキンキラメッキをまとわされたクルマに墜ちていった。

そのデザインがまともになるのは、80年代終わりから90年代にかけてシーマが成功して、ニッサンが(ちょっとだけ)息を吹き返してからだ。
バブルの勢いで作ったシーマは、セド/グロのように他に比べるクルマがなかった。なので開発陣が比較的自由にデザインした。結果的に「シーマ現象」などと呼ばれ市場に認められたので、デザインの発言権が以前よりも強くなったのではないか、と僕は思ってる。

現代のクルマにないデザインで、いまとなっては貴重な80年代のセドリック。フェンダーが大幅に余っていたので、ぶっといタイヤを履かせる楽しみもあった

デザインは、みんなで話し合って作るもんじゃない

1人のプロのデザイナーが、ユーザーやメカニズム、時代を見すえてコツコツと磨き上げるものだ。
「何本も何本も線を引いて、その中から1本の線を見つける」と、奥山清行さんは言っている。
そう、デザインは、1人のデザイナーがすべての責任を負うものなのだ。

スカリオーネ、サッコ、ジウジアーロ、ガンディーニ、みんなそうだ。
ミケロッティ、ベルトーネ、ピニンファリーナといったカロッツェリアで作られたデザインでも、そこで誰がデザインしたか、デザイナー個人の名前に着目されることが多い。

最近では、iPhoneのアップルが有名だ。
スティーブ・ジョブズはiPhoneの使い勝手から機能、デザインまで徹底的にこだわり、気にくわなかったら例え発売が迫っていても手直しをさせたという。そのデザインの出来映えは、市場での売れ行きが証明している。

機能、ユーザーメリット、メカニズム、市場での立ち位置、作りやすさ、そのコスト・・・それらいろんな要素を工業デザイナーは背負って、ひとつのカタチに結実させる。一大叙事詩みたいなものだ。

それを、老ボケとか他部署スタッフとかがケチを付け、それに対していちいちデザインに手を入れていたら、どんどん崩れて台無しになっていくに決まってる。合議制で技術はブラッシュアップされるかも知れないが、合議制の名のもと余計な意見や要素を盛り込んでいったらデザインは濁ってブサイクになっていくだけだ。決してグッドデザインになることはない。
ジウジアーロが描いたオリジナルに近いグランデプントの方が、その後社内デザイナーによって修正されてマイナーチェンジされたプント EVOのデザインよりも、やっぱりいいネ!と思えるのと一緒。

どう見てもバランスが悪くて落ち着かないフォルム、
主張がなく今ひとつハッキリしない、ぱっとしないルックス、
ゴニョゴニョとしたヘンなラインやモールが多くて安っぽいディテール、

それらはみんなきっと、合議制でデザインを決めていくうちに、誰かが言いだしたりして修正されたり、加えられた結果。
合議制という美名のもと、デザインという商品価値をみんなでよってたかって台無しにして、ボロボロにして売り出してる。それが日本企業のやり方。

誰も責任を負わないデザインの、なれの果て。
そんな、なれの果てを僕ら消費者はつかまされてるわけですよ。