S2000レギュレーションとフィアット・スティーロ[ アバルト グランデプント S2000で始める欧州ラリー入門 vol.5 ]
アバルトってすごい、と改めて思う。
だって彼らの本来の立ち位置は、基本、レーシングマシンの開発部門。その、ホンモノのプロ集団が市販車をプロデュースしてくれて、僕らもこうして楽しめている。
レーシングマシンのプロが、そのエッセンスを入れた市販車を販売してるなんて、これはフェラーリのビジネスの文脈に近いものがある、なんて思ったりもして。
輝かしいカルロ・アバルトの時代、そしてそれ以降のフィアットのレーシングマシン開発部門としてのアバルト、さらにFCA総帥だった故セルジオ・マルキオンネが価値を再興したアバルト。
「アバルト」の名のもとにそれぞれいろんなフェイズがあって、それがこのブランドを分かりにくくしているような気もしているけど、一回きちんと辿り直したいと思い始めたりもしていて。
さて、S2000。
「LE ABARTH DOPO CARLO ABARTH〜カルロ・アバルト以降のアバルトたち〜」というタイトルの本が手元にあって、そこには1971年にフィアット参加になって以降、アバルトが手掛けたマシンが集められている。
もちろんアバルト グランデプント S2000もあり、そこの情報を拾い出してみた。
本文はイタリア語/英語の2カ国語で記されており、今回は英語テキストの機械翻訳(DeepL翻訳)を抜粋して記載しています。
2005 -SE109
Fiat 199 Super 2000
市販車の研究は2004年6月に開始された。スタイリングセンターではモデルのモックアップ、実験建設施設ではボディが展示された。
2004年後半には、SE099で得られた経験を考慮に入れた予備的なプロジェクトが開始された。ロガンのプラットフォームをベースに同様の車を開発していたルノーと共同で、市販車のラリー仕様への転用を目的としたテクニカルルールの策定も並行して進められた。
ふむふむ、、、研究開発はデビューの3年くらい前から始まってるのね。。。
“SE099”は、Stiloベースのラリーマシンの先行開発車両、これはこのページ最後で。
しかしStilo、そういえば日本でもちょっとだけ輸入されてたけど、今もあるのかな。調べたら、このページでものすごく珍重されてた(笑)。
もっと言うと、Stiloには188プントHGTと同じような、コスメティックチューンのアバルト版もあった。
“ロガンのプラットフォームをベースに同様の車を開発していたルノーと共同で”開発したのはルノー傘下のダチアで、マシンはDacia Logan S2000、このページによればテストだけして参戦はしなかったそうだ。ちなみにこんなマシンだった。
規則によると、エンジンは同ブランドの市販車から派生したものを使用することができ、そのベースには、アルファロメオ156の1800ccバージョンなどにも搭載されていたStiloの1746ccエンジンが選ばれ、上限の2000ccに排気量が拡大された。ボア×ストロークはわずかに変更された。トルクカーブと耐久レースでのクランクケースの耐久性を向上させるために、86×86から85×87.5mmとなった。
アルファ156には、本国では1.8TwinSparkがあった。で、ここに書いてある“86×86”のボア・ストロークだけど、156の2.0TwinSparkは83×91mmなので、どのエンジンのことを言ってるのかは不明。スバルBRZとかトヨタ86のFA20エンジンがちょうどそのサイズだけど。
前のエントリでストロークは88になってるけど、正確には87.5でしたね。
Stiloの1746エンジンは、バルケッタとか188プントHGTにつながるエンジンかな、排気量やボア×ストロークからみると。
6速ギアボックスにはシーケンシャル制御が採用されていた。3つのセルフロック式デフは機械式のプレートタイプで、トルクは前後の車軸で50/50ずつ配分されているため、車重をできるだけ後ろに移動させる必要があった。
フロントサスペンションは、ジョイントセンターの位置については慣習的に+/-20mmの公差が認められており、製造時の設定に従った。リアは、世界ラリーカーのレギュレーションで規定されたように、4×4の構成を採用しなければならなかったため、レギュレーションではマクファーソンのレイアウトを採用することになった。
選択肢は高品質のオーリンズ製ショックアブソーバーで、ストラットは規則によりフロントとリアを同一にしなければならなかった。
WRCモデルと同様に、未使用のアクセサリーをすべて取り外し、センタートンネルを製作し、リアサスペンションマウントをレイアウトすることで、市販車のボディを作り直した。
6速ギアボックスと4×4のドライブトレーンは、レギュレーションでフランスSadev社製のものに決められていたそうです。コントロールタイヤ鳴らぬ、コントロール・ギアボックス&ドライブトレーンだったわけ。でもそのおかげでマシン開発の期間とコストがぐっと短縮されたとWikiに書いてありました。なるほど!
車両の重心を後退させるためのシート位置とか、リアまわりのモデファイ状況は、前回のエントリの画像でも見ることができます。
セルジオ・ベッキオがいつものように書き上げたスケッチをもとに、ボディの改造はスタイリングセンターに託された。
1999年のプントラリーと同じように、モックアップの進化を一歩一歩追いかけて開発を進めていった。
ルール上の自由度が低く、1800mmという幅の制限がボディの幅を広げすぎないようにし、アグレッシブさを抑えた。
1月下旬に到着した改造ボディは、将来の市販車のサプライヤーの協力を得て社内で作業を行い、2005年7月1日に完成させた。
Nテクノロジーの4周年を記念して、完成した車両を披露した。
開発はチバッソサーキットでの機能テストから始まり、クネオ地域やサンマルティーノ・ディ・カストロッツァラリールートでのターマックロードテストを経て、秋にはサルデーニャ州のグラベルロードとリグーリア州のターマックロードでテストが行われた。
さらに秋にはサルデーニャ州のグラベルロードとリグーリア州のターマックロードでテストが行われた。
セルジオ・ベッキオさんとは、文脈からするとマシンの外観をデザインするアバルトのスタイリスト的な人だったのか。テクノロジーにしてもデザインにしても、イタリアのこういう部門には必ずキーマンがいて、その人が文化みたいなものを継承しているけど、彼もその一人だったのだろうか。興味ある。
“Nテクノロジー”は、フィアット全体のレース活動を運営する会社、と僕は認識してる。
開発はアバルト、レース参加はNテクノロジーから、という図式かと。
で、↑の“SE099”プロジェクトですが、上記「LE ABARTH DOPO CARLO ABARTH」で追いかけると次の記述が出てくる。
こういう感じで、時代のレギュレーションに合わせて連綿と開発とテストをやってるんだな、と。そう思ったらアバルトの歴史の分厚さみたいのを感じて、で、ページ出だしのようなことを思ったわけ。
2002-SE099
スーパー2000ラリーのルールは2002年に定められた。競技車両は従来の25000台生産の市販車をベースにしたものであること、競技車両は細部に至るまでホモロゲーションフォームで「凍結」されたものであること、完成車には価格制限が設けられたこと、そして何よりも同じ4×4の駆動系を使用しなければならないこと、などであったが、2002年にはスーパー2000ラリーのルールが定められた。
トランスミッションの取り付けプロセスを容易にするためのマイナーなカスタマイズを除いて、異なるサプライヤーが提供するすべてのマシンに適用された。
トランスミッションのサプライヤーは、世界のレースカー用トランスミッションの全メーカーに入札を行い、FIAによる提案の技術的・財務的分析を慎重に行った結果、SADEVに決定された。SE099プロジェクトは、FIAの仕様に基づいて考案されたSADEVトランスミッションの導入可能性を確認するために2003年に開始された。2004年のスポーツプログラムが検討された際には、ラリーにおけるフィアットブランドの関与を評価するための参考資料としても活用された。
これらの活動は、Fiat Grande Punto モデルのSE109プロジェクトに継承された。
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